――ある暑い日。
外回りを終え、新横浜から会社まで5分ほどの距離を、ビルの合間から差し込む西日を逃げるようにオフィスへと駆け込んだ僕は、エントランス一杯に広がるクーラーの清涼感に安堵の色を浮かべた。
午後4時。
いや、スマートなビジネスマンなら、16時と言うべきか、日中の一時の熱波は収まったものの、夕方と呼ぶにはまだ明々しく、照りつける夏の日差しが恨めしい。
「お疲れ様です。暑い中大変ですね」
エレベーター脇の受付からあいさつをくれた麻衣ちゃんは、入社2年目の女子社員だ。
快活で気立てが良く、その愛らしさが評判の社内のマスコット的存在になっている。
「今日はどうでした?」
「・・全然ダメだった。窓際族まっしぐら」
そう言っておどけると、
「またまたー。そんなこと言って、いつも成績トップなの知ってますよ。出来る人の謙遜は、逆にいやみです」
と、彼女は満面の笑みを浮かべた。
整った顔立ちを鼻にかけないどころか、気配り上手な彼女の立ち振る舞いは、職場に花を添えているようにさえ思う。
彼女の労いに笑顔で答えながら、書類で埋もれたデスクへカバンを下ろすと、背中越しに声が掛かった。
「なんだよ、ニヤニヤしちゃって?いい案件でもあったのか?」
「お、篤史か、おつかれ」
彼は、理系大学院の博士課程を中退してこの会社へ入ってきた、異色の営業マンだ。
キャリアとしては自分の方が3年ほど長かったが、同い年だったことも手伝って、この4年間親しくして来た。色白でスラっとした優男風だが、ここぞという時の強さを持ち合わせている。信頼できる奴だ。
「や、全然だめだ。やっぱ、不況の影響がモロに出てる。どこも縮小傾向だよ」
「だよな、俺もさっぱりだ」
企業が採用活動を控えるこの不況にあっては、人材派遣を生業とする中堅企業に苦戦が強いられるのも、ある意味仕方の無いことであった。この暑い中、来る日も来る日も不毛なヒアリングを続けているというのが現状である。
「しかしお前、この暑い中、よく上着なんか着てられるなあ」
メタルフレームのメガネにノーネクタイの篤史は、二つ目までシャツのボタンを開けている。
「俺は、こっちの方が調子がいいんだ。お客さんの信用に関わるからな」
「そんなもんかね?」
「個人的には、ね」
「はいはい、トップセールスマンが言うなら間違いないでしょうね」
篤史は、やれやれと言った様子で、こちらを見上げている。
「そういえばさ・・」
「ん?」
篤史のデスクワークの手はすっかり止まったままだ。
「今日、電車で小学生の子供の会話聞いたんだけどすげーこと言ってたぞ」
思い出し笑いを一旦こらえた。
「なんて?」
「『俺、寒がりだから温暖化、サンセー!!』だって」
「はは、面白いな」
「だろ?呑気なもんだよ、まったく」
「そうとも言えないかも知れないけどな?」
「なんだよ、回りくどい言い方して?」
「まあ俺は、その小学生の意見も一理ある、と思うってことさ」
「一理ある、つーと??」
「まあ、個人の好みは置いておくにしても、歴史的に見れば、寒冷化より温暖化の方が遥かに人間の生活を豊かにしてきた、ってことかな」
「氷河期に比べれば、ってことか?」
「そうだな、それもある。それに、氷河期とまではいかずとも、寒冷化は不作の原因になるから、常に食料を奪い合う戦争の火種となってきた」
「なるほど・・」
「それに、科学的なデータを取ると、熱波が起こった年よりも寒波が起こった年の方が死亡率は高いんだ。もっと言えば、温暖化には死亡率を下げるデータすらあって、中世における温暖化は、『豊饒』を意味する。中世温暖期には、イギリス北部でもブドウが採れたらしい。だから、必ずしも小学生の意見は間違いでは無いってことさ」
篤史のロジックはいつも明快だ。人を納得させる力がある。
時々、大学院を辞めてしまったことが他人事ながらもったいなく思えてくる。
「相変わらずすげーな。お前がデータを持ち出すと、敵わねえよ」
「茶化すなよ、選んだ道が違っただけさ。俺に、お前の営業トークは真似できないよ」
篤史は、いつもこんな調子だ。
自分の優秀さ決して誇ろうとはせず、常に相手を尊重する。謙虚な奴なんだ。ただ・・
「あと、真夏にばっちりスーツも真似できない」
「ほっとけよ!」
――そう、ただ、こいつはいつも一言多い。
思わず突っ込んでしまうのは、文系の典型として営業畑を歩んで来たからだろうか。
それにしても、温暖化が悪くないというのは面白い話だ。
カフスボタンを外して時計を見た。
なけなしのボーナスをはたいて買ったスピードマスターは、宝物だった。
――16時20分
就業まであと40分、どうせ今日も残業だ。少しの息抜きぐらいは多めに見てもらえるだろうか。
「篤史、ちょっと付き合え」
「なあ、さっきの温暖化の話なんだけど・・」
「ん・・ああ」
自動販売機の前に立つ篤史は、小銭を探すのに夢中といった感じだ。
「あれって、通説なのか??」
「・・・・」
「・・・おい、聞いてんのか?」
「・・ん、ああ、聞いてる、聞いてる。温暖化だろ?ちょっと待て、どれにするか考えてるから」
モノが溢れるこの時代に、お茶とコーヒーしか売ってないこの販売機も珍しいが、その二択で悩める篤史のキャラクターも十分珍しい。
実際、篤史は慎重すぎるくらい慎重な男だ。
以前どうして彼女を作らないのか聞いたことがあったが、その時の返事が面白かった。
『科学ってのは疑ってかかるのが前提なんだ』
冗談なのか、本気なのか。
石橋を叩いて渡らないタイプの篤史の性格を思うと、プライベートまで科学してしまうというこんな発言も、ついには本気のように思えてくる。
『下手な鉄砲も数打ちゃ当たる』精神の俺とはまったく逆だと、あの時は笑った。
「お前、いつまで迷ってんだよ??お茶とコーヒー2種類で!」
「よく見ろ?ホットとコールド合わせて4種類・・」
「真夏にどこ悩んでんだよ、コールドに決まってんだろ!(ピッ)」
(ガシャン)
「あーー!!」
「あー、じゃねえ!」
自動販売機は都会のオアシスだ。
一息つけるその安堵と休息の場所は、そこに集まる人々の人間模様すらも見せてくれる。
そういや、尾崎豊が「100円玉で買えるぬくもり」なんて歌ってたっけ。
「で、温暖化の話だっけ?」
乾いた喉を一通り潤したところで、篤史が口を開いた。
最後の一口を飲み干すと、僕は、空っぽになった缶をゴミ箱へと放り投げ、うなずいた。
「温暖化は悪くないって話、あれ、異説だよな?」
科学的な専門知識はないにしても、国連の専門機関で議論され、連日メディアでも報道されている温暖化の原因がCO2であることや、その影響で地球にさまざまな問題が生じていることぐらいは知っている。にわかに信じられなかった。
「そうだなあ・・」
篤史は一呼吸おいてから続けた。
「正直なところ、俺にはよく分からない。けど、考証に値する『異説』であることは間違いない」
「考証に値する?じゃあ、正しい可能性もあるってことか?」
「ああ、その通りだ」
「待てよ、温暖化は環境に悪影響を与える、ってのが常識だろ?」
「常識っていうのはな、所詮、誰かが作ったものなんだよ」
「なっ・・」
常識が・・?作られる?
・・考えてみれば、それはそうだ。確かに常識は作られる。しかも後天的に、だ。だが、現代の科学を駆使して導いた答えが温暖化脅威論じゃなかったのか?
「けど、科学的に証明されてるんじゃ・・?」
「少なくとも俺はそうは思っていない。この先、覆される可能性はあると思ってる」
「なんだよ、それ?科学の常識さえも覆されるってことか?」
「ああ、所詮常識なんてものは、その時々で有力な学説というだけのものであって、また別の学説が現われ、その考え方が支持されれば、それが新たな常識になるだけの話さ。過去には、宗教が科学であり、常識であった時代もあった。それを思えば、現代の科学は常に新しいものに取って代わられる可能性があると言っても過言じゃないよ」
「・・いや、それはそうだろうけど、いまいちピンと来ないのは、マスコミや国際機関、科学者まで口をそろえて温暖化だと言ってるのに、これが覆されるってのがそもそも・・」
歴史にさまざまな学説があるのは知っていた。
例えば、聖徳太子は、無念の死を遂げたために怨霊になってしまったとか、自分が子供の頃に習った「足利尊氏」の絵は、実は尊氏本人ではなく、別人である可能性が高い、だとか、歴史が資料批判によって究明されている以上、その時々で有力な学説が変わる、つまり、歴史学の常識が変わる可能性があることはある程度理解できる。
しかし、現代の科学で、しかも国際的にコンセンサスが取れている「温暖化」の常識が覆されるだって??
困惑する僕の様子を察したのか、篤史が言った。
「一見科学に見えても、その情報がマスコミやネットに媒体され陳腐化すると、科学じゃなくなることがある。お前の知ってる科学を一度疑ってみようか?」
「・・・面白そうだ」
僕はネクタイをゆるめた。
「じゃあ、例えば、地球が温暖化すると海水面が上昇すると言われてるけど、その理由は知ってるか?」
「そりゃお前、あれだろ?北極とか南極の氷が溶けて海水が増えるからだろ?」
「常識・・だと思うか?」
「そりゃ色んなところで言われてるし、その通りだと思うけど」
「残念ながら、これはウソだ」
「・・ウソ?!ちょっと待てよ!なんでウソなんだよ、報道でもやってるし、学校でも教えてる!氷が溶けたら水は増えるだろ??」
「まあ、落ち着けよ。『アルキメデスの原理』って知ってるか?」
「・・いや、初めて聞いた。数学者だか、物理学者だか、そいつがギリシャの偉人ってことぐらいしか知らない」
「アルキメデス原理っていうのはな・・」
そう言うと、篤史は給湯室の戸棚にあったグラスに氷を入れ、ふち一杯まで水を注いだ。
「ここで問題だ。グラス一杯の水に氷が浮いている。この氷が溶けると、グラスの水は溢れるかどうか?」
「・・いや、何となくだけど溢れない・・と、思う」
「その通り。これがアルキメデスの原理だ。液体中の物体、つまり氷には、その氷が押しのけた水の重さと等しい力が浮力として働く。極の氷もこれと同じだとは思わないか?」
・・確かに、その通りだ。
この原理が不変であるならば、北極に浮かぶ氷は、溶けたとしても海水面には影響がないように思える。
しかし、大陸や高山にある氷が溶けて海へ流れたらどうだ?
それは海水面の上昇へつながるのでは??
「はは、何かもの言いたさげだな。お前の思ってる通りだよ。これはあくまでも海水に浮かんでる氷の話であって、元々海水に漬かってない氷が溶けて海へ流れた場合は、海水面は上昇する」
「じゃあ、やっぱ問題じゃねえか」
「まあ待てよ。俺が言ってるのは、今温暖化の通説とされているさまざまな情報というのは、メディアやインターネット、学校教育などを通じて広がってゆく過程で、必ずしも正しい情報が伝達されていない、ということなんだ。その意味で、これらの情報は既に『科学』とは呼べないと、俺は思っている」
「確かに。情報を鵜呑みにしてる大衆は多いだろうな。実際、俺も今ここでこの話をしなかったら、ずっと間違った情報に支配されたままだった」
「うん、まあ、それは仕方ない部分もある。俺がすべてを疑ってかかる性格なのは、実はこの辺りにも理由があるんだ。他にも・・」
篤史はちらりとこちらを見やった。
「ちょっと待て。俺のことも疑ってる、って言うんじゃねえだろうな?」
「いや、お前は信じてるよ。演繹法は科学だ」
「演繹法??」
「もうすべて疑いつくした、ってことさ」
「ちょ、一言多いんだよ、てめーは!」
「はは、わるい、わるい。とにかく、だ・・」
「あれー、二人ともこんなところで何盛り上がってるんですかー?」
元気な声の主は、麻衣ちゃんだった。
篤史との会話に関心を持ったのか、彼女は混ぜてくれと言わんばかりの表情だ。
「聞いてよ、麻衣ちゃん。篤史が俺のこと疑いつくした、って言うんだよ?」
「あはは。それはきっと口が上手いからですよー。あたしも気をつけよー」
「ちょっと、ずいぶんひどいこと言われてるけどー!」
「はは、褒め言葉です」
屈託の無い笑顔に、場の雰囲気が明るくなった。
彼女には営業の才能もあるように思う。
篤史は、微笑みながら彼女の様子を見ている。
――そうだ、温暖化の話だ。
「そういえばさ、麻衣ちゃんは温暖化どう思う?」
「えー、難しいなあ・・白くまが困るって話を聞いたことがあります」
「白くま??」
「はい、氷が溶けると、白くまの住むところがなくなる、って」
「なんて可愛いことを!どうなんだ、篤史?」
「OK、わかった。じゃあ、先に仕事を終わらせてゆっくり話をしよう」
「引っ張るねー、篤史は。了解、さっさと企画書終わらせるか」
「えー、わたしも聞きたいです」
――16時55分。
給湯室の窓から伸びる西日が、麻衣ちゃんの横顔を照らし、好奇心に満ちた彼女の瞳をいっそう輝かせた。
(洛陽 第1話 完)
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